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■■■ メビウスの果て
秋晴れの青空が、澄んだ高い日だった。 ふらり、訪れた千歳を桔平は何も言わず迎え入れた。大阪から東京までそう気軽に来れる距離ではないと思うのだが、小学生の時分にひとり旅で北海道まで行くような奴だ。そういうものだともう桔平は思っている。 「顔見たくなったばい」 「そうか」 まあ入れ、と言わずとも千歳は上がるだろう。一人暮らしのアパートに、やたら大きな存在感が落ちた。図体はでかいが、不思議と邪魔だとは思わない。後輩のように何くれとなく世話を焼く相手でもなく、気を遣う間柄でもない。ただそこにある。当たり前のように。隣にあるのだと傲慢に信じていた。決別するまでは、千歳はそんな、空気にも似た相手だった。────けじめをつけた後、立場こそ変われど変わらないものもあると知った。 それでも茶を出すかと立った桔平の背中を、飄々とした視線が追っている。 まだ昼はそこそこ暖かい。傷まないよう冷蔵庫に入れておいたお茶のポットを取り出し、適当なグラスを引っつかんでちゃぶ台の上に置いた。飲みたければ勝手に飲め、という意思表示である。 「ちょうど喉乾いとったけん」 遠慮なく、千歳はなみなみとお茶を注いで美味そうに啜った。 何しに来た、と問うつもりもない。千歳の前にどかりと座ると、広げていた教科書にもう一度目を落とした。顔を見に来たと言うなら顔を見に来たのだろう。他になにかあるなら言う奴だ。気ままに訪れ、自由に振る舞い、好きなときにいなくなる。だから桔平もしたいことをする。いや、するべきことと言うべきか。 大学生の本分は勉学だ。自分がやりたいこと、選んだ道に進学している。だから課題をする手を止めてまで構ってやるつもりはない。なにしろ桔平が一番熱心に受けている科目の教授は課題が多いことでも有名なのだ。 静寂の中に、じりじりと灼けるような視線がうるさい。なにをするでもなく、千歳はシャーペンを動かす桔平の手元を、伏せた顔を眺めていた。 「桔平」 「なんね」 降り始めの雨が、地面をうがつように。低い声が耳を打ち、つとめて桔平は平生と変わりないいらえを返した。教科書とノートを往復させる目は止めない。 「よか匂いがすっと」 弾かれたように、顔を上げた。 「馬鹿なこと────」 からかいか、それとも願望か。 千歳千里はアルファだった。そして橘桔平もまた、ベータの両親から生まれた珍しいアルファだった。発育のよかったふたりは、対のあざながつく頃には既にその事実を知っていた。桔平は自分がベータだろうと思いはしても、オメガかもしれないと思ったことはなかった。だから、その事実に対して何か思うことはない。 ただ常日頃から泰然としていた千歳が、「そうか……」と小さく、ため息のように落とした呟きの意図を深追いすることはなかったのだ。 「本当にわからんとや?」 玄関先で顔を合わせ、ちゃぶ台の向こうから見上げても来たのに。今日初めて、呑み込まれそうに深い目が桔平をひたと見据えた。目が合った、と思った。 昨日の夜沸かしたお湯の、沸騰を合図する音が何故か、脳裏でビーとけたたましく鳴った。 橘桔平はアルファだ。ベータから生まれ、だがそのありようは紛れもなくアルファそのものだった。 どこまでも自由に傲岸に振る舞っていた、まだ子どもだった自分もある意味そうだったのだろう。まして新しい地で再び立ち上がり、慕ってくる後輩たちの面倒を見る自分に、妹は「お兄ちゃんそういうのが性に合ってるんだよね」と笑った。 群れを率いるアルファ。雄として後輩を見たことはないが、守り育てるべき仲間たちを先導するという役割は誂えたかのようにぴったりとはまった。人格の半分が環境で作られるなら、もう半分は生まれついてのものだ。アルファだからと型にはめられるのを嫌うむきも存在するが、そうあれかしと願望を押しつけられるならいざ知らず、己がこうありたいと思うぶんには厭う理由もない。 気質としてのアルファ。桔平は自分をそう解釈していた。家族親族がベータであることもあり、第二性としてのアルファが縁遠かったこともあるかもしれない。もっとも身近なアルファが、自由でマイペースな千歳だったこともまた拍車を掛けた。 アルファもオメガも、今は抑制剤を服用していればベータとほとんど変わらない生活を送ることが出来る。いつか大切な相手を選び生きていくのかもしれないが、それをつがいとイコールで結んだことはなかった。 「きさん、まさか」 「俺は桔平以外、そういう目で見たことはなか」 汗が出たわけでもないのに、てのひらがちゃぶ台からずるりと滑り落ちる。寒気のような震えが首筋から広がり、背筋を伝って足先まで痺れさせていった。 目が眩む。陽炎のごとく揺らぐ空気はまさか、千歳のフェロモンか。気づかなかった。 何故ならアルファ同士のフェロモンはぶつかり合うからだ。オメガを奪い合うライバル、敵、排除するもの。アルファのフェロモンはオメガに応え、邪魔なアルファを追い払うためにある。だからアルファのフェロモンが香るなら、それは威嚇と同義だった。いかに親しい間柄でも、フェロモンを向けられれば反射的に顔が歪む。そう、あるべきもので────。 ふわり、と鼻先をくすぐるのは熱い夏の気配だ。晴天を吹き抜けていく、自由な風がまとう空気。千歳らしいと思いつつ、それでもやはりチクチクと刺さるにおいのはずだった。 大きな体が影のようにゆらり、立ち上がる。一歩、一歩、畳を踏みしめる足音が近づいてくる。風が、過ぎ去ったはずの夏がやって来る。 「知らんかったとは言わせん」 そっと隣に膝をついた千歳が、いつになく慎重な手つきで桔平を抱え上げた。壊れ物のようだ、と笑い飛ばしてやれればよかった。指先さえ、桔平の意思で動くものはひとつもなかった。 「アルファのビッチング。聞いたことはなか?」 悠々と響くはずの声が、微かに震えている。霞む意識で、桔平は音から記憶を探った。 アルファ同士のカップルで、一方のアルファが強い感情をフェロモンに乗せることにより、意中の相手のからだに愛と執着を溶け込ませて、自分だけのオメガに変える。都市伝説にも似た、世界でも稀な現象だ。アルファと診断された後にひととおり、バース性に関しての資料は調べている。知っていた。 だがそれがまさか己に降りかかるなど────知らんかったとは言わせん=@瞼の裏の千歳が、もう一度同じ言葉を繰り返した。 一方的な執着では、第二性をからだごと変えてしまうわざが成せるわけがない。 「ばかなやつばい……」 譫言のように本音がまろびでた唇を、もう喋るなと言わんばかりに長い指がそっと覆った。揺れる視界ごと、瞼も大きな手に塞がれる。 翼は必ず対である。さもなくば空も飛べず堕ちるばかりだ。桔平と千歳を二翼と名付けた誰か、呼び続けた皆は知っていたのだろうか。ここに至る未来を暗示していたのだろうか。 千歳がテニスを再開したと聞いたときに、けじめをつけるためにテニス部の扉を叩いた。もちろん、不動峰の仲間たちと上に行きたい心も本当だ。それだけの絆を築いてきた。あいつらと全国に行きたかった。悔いはなくとも、きっと一生抱えていくだろう青春の残り香だ。 だがおそらく、再び千歳とコートの上で相まみえるために、あの日自分が断ち切ってしまったものを取り戻すためにも、桔平は全国を目指していたのだと思う。 ならばじくじくと疼くうなじは、見て見ぬふりをしていた桔平の願望の果てなのだろう。 「ばかでよか。じゃないと桔平は手に入らん」 下手くそな子守歌を歌うように。静かな千歳の声が降る。 からだの機能ごと変えるのだ。少なくとも一週間は熱を出して寝付くだろう。課題、締め切りが近いレポート。大学には欠席の連絡を入れて、杏には心配するなとメールして────ああもう、限界だ。気ままな千歳だが、桔平の現状が自分のおこないにある以上、世話くらいはしてくれるだろう。さもなくばうなじは噛ませない。アルファは群れを率いるもの。獅子の首筋を奪っていくのだから、相応の扱いは要求する。遠慮はしない。 「起きたらつがいになってくれ」 それはおまえ次第だ、と呟いて。桔平は深い眠りの淵に沈んでいった。 (22.10.27) [ text.htm ] |